22日土曜日日経夕刊の、馬渕さんの記事は痛快だった。
うるさいという世田谷区の人たちに読んでいただきたい。
馬渕さんは、
子どもがうるさいと怒る権利のあるのは、かつて子供でなかった人だけだ、と書いている。
御意。
夜はベッドで絵本を2-3冊読んで、お祈りすればこてんと寝る娘べべ。
だが、今夜は様子が違った。いつもの寝息が聞こえない。
暗がりの中で聞いた。
「・・・どうしたの?」
「あのね。保育園でHちゃんが、べべちゃんのこと好きじゃない、って言ったの・・・」
娘は傷ついていた。
そして、私も暗闇の中で胸が少なからずざわついた。
誰かに心を傷つけられるという事象はこんな幼い年齢で受けるんだ。・・・かわいそうに!!!
Hちゃんを思い浮かべた。
幸いHちゃんは、私たち母子を好きな様子の2歳児で、たぶんそれは真実ではないな、と思えた。
だから、気のせいだよ、と娘には話した。
が、問題はそれがホントか嘘かよりも、こういう時、私は何と言って3歳児を慰めたらいいのか、わからなかったことである。幼子が理解できる言葉で説明するには、あまりにも難しくないか?
「世の中にはいろんな人がいるんだよ」と言いたかった。
が、理解するにはあまりにも早すぎる年齢である。。
世界のあらゆる暴力や攻撃から娘を守ってやりたいと、彼女を抱えてシェルターに走っていきたくなった。
だが、そういう私もまた、誰かを無意識に傷つけていることがある。
世界に楽園はないのだ。
なんという言葉も見当たらず、「ママとパパはベベちゃん大好きだよ」と言う言葉もなんだか空しく、大丈夫だよ、と繰り返しながら、娘の背中をポンポン叩き、寝つかせた。
仕事量が増えるのに伴い、職場でイヤな思いをすることも増えてきた。
そうだ、これが会社だったと思い出しながら、乗り越えねばと思うとき、子の存在は偉大である。
イヤなことがあっても、
負けるもんか、
気にしてなんていられないよ、
と娘の無邪気さに癒されながら、嫌な記憶を放り捨てる。
それで夜、
娘が静かに一人遊びに興じてくれていたので、話しかけてみた。
「べべちゃん、いつもありがとう。
ママ、べべちゃんがいるから頑張れるよ」
そしたら、
「どういたしまして!
べべちゃんも頑張ってお仕事したよぅ。
保育園でブロック作ったよう。」
というので、
可愛さにぶっ倒れた。
きっと、どこの子も、こんな風にかわいいんだろうなと思いながら、
この子の人生の豊かさを願わずにはいられない。
予約制のクリニックで、予約したのに1時間以上待つと言われた。
時間を工面して連れて行ったので、
だったら到着する前にその状況を教えて欲しかった。
インターネットで予約する時間、
連れて行く時間、
働く私には、貴重な時間だ。
代官山Tsutayaに開業して、24時間空いていて、最新の設備を整えているようなので、様々なことが効率的で期待が高かっただけにがっかりした。
どうしますか、受診しますか?
の質問にもがっかり。
結局しばらく待ってまだまだかかるとわかったので帰ることにした。
帰り際、次の予約を取りますか?と、聞かれなかったことにもがっかりした。
代わりにこちらが聞いたら、また同じようにお待ちいただくかもしれませんとの事。
だったら何のためにインターネット予約があるのか。
かかりつけにはすべきではないと思った。
先月の週末夜、娘が食卓でふと言った一言。
「あのね、パパとママがちっちゃくなったら、べべちゃんが車にのせたげる。」
主人と私は顔を見合わせて、泣きたくなるような、うれしい気持ちになった。
私は、その一言で一気に年老いた気がしたが、未来がすこし楽しみになった。
そして今日、主人の実家に出かけた。
義母が、
「おばあちゃん、会いたかったわ〜。きてくれてありがとう」
と言ったら、
「とんでもないですぅ〜」
と、娘がはにかみながら返事したから、一同大笑い。
確かにその日本語の使い方はただしい。
誰に教わったんだろう?やっぱり桜子かな?
などと、皆が言いながら、
子供の一言には、感動させられたり、笑ったり。
のどかで、ありがたい日々である。