宣教師ゴッドホルドベック氏を悼んで

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昨夜こどもを寝つかせると、いつもなら一緒に眠ってしまう私が、この日は珍しく携帯のメールを見た。見ると、“宣教師のゴッドホルドベック氏昇天”の知らせがきていた。

前から体調が悪いと聞いていたが、
不屈の精神を持つベック氏は、80を過ぎても病の床から幾度となく復活されていた。
だが今回はもう二度と会えない存在になってしまった。

私はベック氏の熱烈なファンではなく、ベック氏を通してイエスキリストを信じるようになった、ただの一般信徒だ。だから、いつかこんな日が来ても平静でいられると覚悟していたはずが、喉をかきむしられるような悔恨の念に襲われた。

なぜだろうか。

彼を見て、多くの日本人が聖書を通してイエスキリストを信じ、その信仰生活を教わった。その数、何千いや何万人と思われるが、彼のような、神様の香りを放つような人物にはもう一生涯出会えないと確信に似た思いがすると、悲しみが波のように押し寄せてくるのである。

最後に話したのはいつだったろう。もっと話したらよかった。
いや?大勢の悩める人のために東奔西走していた方だったから、話すことは難しかった。

では私は何を悔やんでいるのだろう。
もっと彼の背中についていけば良かった、という思いだろうか。

ふだんめったに話さないから、といって、話さないでいることと、
話せない、というのには、同じ現象でも大きな隔たりがある。
ベックさんはもういないのだ。

夜中に目が覚めて、涙が初めて出た。
私はショックを受けていた。
携帯のメールをみたら、NYの日米合同教会にいる親友からメッセージが来ていた。

残された私達には大きな試練ですね。
日本にとっては国家的な損出です。
召されてベックさんはこれからもっともっと有名になっていくでしょう。
彼を日本に送ってくれた神様に感謝しましょう

と書いてあった。
本当にその通りである。

死は終わりではない。
人は病では死なない。

神様の時に召されると何度も言っていたベックさんの言葉は、何年か前のドイツインタビュー
でも繰り返しおっしゃっていた。

あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
(マタイの福音書 6章27節)

だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日、その日に十分あります。
(マタイの福音書 6章34節)

わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
(詩篇 103章2節)

葬儀は8月28日13時から西軽井沢にて行われる。