草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(聖書・イザヤ書40章8節)
太陽がまぶしく、木々や花々が美しい新緑の季節になった。私たちの混乱など、どこ吹く風のように、自然は素晴らしく地球は廻り続けている。
緊急事態宣言の発令が、3度目になった。2回目はいつだったか忘れてしまったが(※)、初回の緊急事態宣言の衝撃には及ばない、と思っていた。あれこそ、今でしょ!と思うほど、今回の目玉は「飲食店での酒類一斉禁止」がめぼしいだけ、と思っていた。が、さにあらず。ジワリジワリと、発表外の施設も封鎖が続き、東京都の要請力の強さを見せつけている。
※2021年1月8日~3月21日が2回目
「ダイソー(渋谷の新名所が上陸⁈ダイソー旗艦店スタンダードプロダクトがキタ)も休みなのね。。。」
と、昨日うちに来たピアノの先生が、レッスン中にもかかわらず、2回も娘に繰り返して呟いた。ダイソーは先生にとって大事な場所だったらしい。
一方、私がショックを受けたのは、何の連絡もなかったGWの子ども旅行が中止、と昨夜遅くに連絡を受けたことだった。なぜ、もっと早くそれを教えてくれぬー?!荷造りしていた私はひどく落胆し、動物好きな娘もまた、同じようだった。
だがその夜、一日の感謝の祈りをするとき、娘自身が、
「神さまの、他の計画が待っていると思うのでよろしくお願いします」
と祈ったので、ドキンとした…!
口では「神さまのお導きだねー」と娘を慰めていたが、私にそういう発想はなかった。聞きながら、(そっかあ…)と娘の、若くして、すでに生活の中心に神様を置く態度に、私は目を留めた。私の方が信仰歴もはるかに長く、大人であるのに、まったく手本にならぬ。
いっそ、犬でも飼っちゃう??
と、寝床につく寸前まで、娘のGWをどう充実させるか躍起になっていた。友達に連絡し、グランピングも3か所調べた。が、どれも満席、受付停止、であった。ああ、私のとる行動は、どうしていつもこの世的だろう!
新型コロナウィルスが発生して1年余、私たちが学んだことは何だろう?
私にとっては、神の存在が大きくなった一年だった。信頼していた各国のリーダーも、しょせんはただの人であることを、まざまざと知った。政治家も国も頼れない、という状況になって、自分の身は自分で守るしかない、と感じた。私の場合、これに、神様への祈りが大いに加わる。前述の通り、身の程は分かっているからだ。
この世に神などいない、と言う人に、これまでたくさん出会ってきた。が、私はこんな言葉が聖書にあることを、知ってもらいたい。
「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」
マタイ6:33
「これらのもの」とは、聖書の前文を読むと、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」という、生活上の種々の心配事(経済的必要、対人関係の悩み、健康上の不安、仕事の問題等)を指していることが分かる。つまり、神様を一番にもってくれば、これらのものは満たされる、と言っている。
神を信じる、というと、清貧にならなくちゃ、とか、キリスト教に入信とか、生き方を改めなくてはならない負担が重くのしかかってくるイメージがあるが、聖書で言っていることは、実にシンプルだ。
「俺は神」でなく、神こそ神、と「神がいて、生かされている私」に感謝して生きよ、と言っているだけなのだ。つまり、心の問題だけなのだ。
不確かな時代の確かな歩みに、神なくしてわが人生なし、というのが、コロナで私が学んだことだ。伝わりにくいかもしれないが、「もし神様がいるとしたら、私が信じられるようにして」というところから、心を開いてみてほしい。
何を隠そう、私自身も、そのようなところから、神を信じる道への第一歩を始めた1人なのだから。