私が社会人になったとき、インターネットはまだ表に出ていなかった。
広告代理店に入社した当時は東芝ルポ(ワープロ)がパソコンのような先端機器的存在だった。
その後、時は流れ、かつて、マス4媒体に続く第5のメディアと呼ばれたインターネットが、今では1位!?という革命が起きている。
あー。テレビ広告売ってた頃はラクだったよなあ・・・
と広告代理店の人は思っているかもしれない。
かく言う私も、この情報量が多い現代社会に疲弊しているため、インターネットがなかった頃を懐かしむ気持ちが無きにしも非ず。
でも、通信会社に勤めているので、そんなことを言ったらいけない。
今日もまたインターネットの世界について考えよう。
で、本日取り上げる内容はこちらの本。
2000年に刊行されました。
常々、インターネットがもたらす精神世界をあれこれ考えていたので、私にとっては良い本だったが、途中何箇所かは読み飛ばした。
むずむずと痒かった背中はやっぱり虫に刺されていたのね!ともいうべき、確信に似た発見文書がごろごろ転がっていた。
以下メモ。
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私たち大人は、現代の私たちの心の中に潜むそれぞれの内的な引きこもりに気づくべきである。引きこもっているのは決して若者、少年たちだけではない。われわれ大人たち自身の中にも、一件やさしく、しかし、とても冷たい引きこもりがある。 (以下所々略)
まず第一に、私たちが都会の中で暮らす、その暮らしそのものの中に引きこもりがある。電車に乗って、周囲に座っている人、立っている人など全く眼中にない。
第二に、人と情緒的に深くかかわらない。ある意味での冷たさとか、やさしさとか、おとなしさといわれるような引きこもりがある。
お互いに激しい自己主張をして衝突したり、相手を傷つけたり傷つけられたりといった、生々しい争いは避けて、みんな表面的にやさしく、おとなしく暮らす。誰もがそのやり方で人とかかわる暮らしを身につけている。そして、それが今の世の中を生きていくコツになっている。・・・これもまた引きこもりの一つの形である。
第三に、このことと深くかかわるのだが、同調的引きこもり、シゾイド心理と呼ぶものがある。摩擦や対立、争いを、みんなと調子を合わせ、巧みに避ける。また見せ掛けの自分を次々に現して暮らす。相手に飲み込まれたり、傷つけられることに不安を感じ、人との間にはいつも隔たりを置こうとする。そのために表層的な人間関係しか持たない。このような内的な引きこもりがみんなの心の中にある。
■人とのかかわりを避ける「冷たいやさしさ」
やさしさは、人が何をしようが自由だという寛容さと、人が何をやろうと私にはかかわりないことだという無関心や、深いかかわりを避けたいという気持ちが表裏をなしている。
私はエレベーターで誰かと挨拶をして和むこともあれば、時には見るからに声をかけられることも煩わしいという態度の人を見ると、居心地が悪くなる。
こちらだけがニコニコ声をかけることが、かえって不恰好で、なにやら恥ずかしいような気がして、こちらもつい押し黙ってしまう。
うっかり親しみをむけて、かえって拒否されるような冷たい雰囲気に触れてしらけてしまう時もある。何か相手のことに深く関わると、厄介なことになる。むしろ冷たい態度をとったり、他人行儀にしていれば、それ以上のトラブルに巻き込まれないで住む。
喧嘩をしたり、叱ったりするほうが、本人のためだという場合もあるのに、それをしない。
攻撃性、自己主張、激しい感情は消失したように見えるが、それだけに非常に未熟で訓練されていない攻撃性が、やさしさを突き破って、激しい破壊性となってあらわれることがある。