あのママ友は私のことがキライ

「あのね、あのママ友は、私のことがキライだと思うの。」

と、ランチを食べている最中、目の前のママ友が、言いにくそうに私に言った。

「え?」

私が怪訝な顔をすると、「今日(彼女が)ここに来ないのも、私のことがキライだからだと思うの」と神妙に言う。

「いやいや、そんなはずはないよ。」

と私は否定したが、彼女はキッパリ否定した。
「そう考えると合点がいくことが今まで何度もあったの」

つまり、この日は当初、ママ友3人でランチすることになっていた。が、約束したのは2週間も前だ。詳しくは前日に、というユルい約束であったため、前日、主催者のママと私は連絡を取り合って待ち合わせ場所を決めていったが、もう一人のママ友への連絡がどうなっているかが私は気になって「連絡しなくていいか?」と彼女に聞いたが、返信がなかった(ので、そのままにした)という状況だった。

「私たち、仲良く思われているけど、実は彼女とはそんなに仲良くないの」と、彼女は困った顔をしてみせた。

「そうなんだ、へー、知らなかった…。」と返事しつつ、私は彼女の方が、もう一人のママより、もっと知らない人だった。私は、もう一人のママを知っているつもりだったから、「あの人は、そういう人じゃないよ。何か不都合だったんだろう、と思うよ」と進言したが、却下された。

だが、その時、タイミングよく、私の携帯にLINEの通知が来た。彼女が、グループ宛に送った内容で、私たち宛ではなかったが、「金曜から忙しすぎて寝込んでる。今日は家でダウン!!」とあった。

・・・ほらね、ほらね!!

あなたの思い込みだよ、と私は彼女にすぐさま、容態を伝えたが、彼女は納得できない顔をして黙っていた。
その様子を見ていたら、私の脳裏に、にわかに聖書の言葉が浮かんできた。

罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている(創世記4章7節)

彼女はクリスチャンで、もう一人のママ友もクリスチャンなのだが、こういう展開になってしまったのである。
2人が仲たがいして一番喜ぶのは、サタンであろう。
そもそも、最初に彼女は、「あのママ友は、私のことがキライだと思うの。」と、当初、推測で発言していたのに、いつから確信に変わってしまったんだろう?

それはまるで、蛇がそそのかして、エヴァに善悪の知識の果実を食べさせたように、
蛇がそそのかして、彼女にママ友はあなたのことがキライなんだよ、と思い込ませているようだった。

私がいくら言っても、一度作ってしまった固定概念を捨てるのは、彼女には難しそうだった。
私は観念して、叫んだ。

「百歩譲って、彼女があなたのことをキライだったとしても、だから何?!
人を見ない方がいいよ!人を見たら(信仰は)つまづくよ。私だって、信用しちゃだめだよ。信用できるのは神さまだけだよ!」

自分が通ってきた道だからこそ、分かる。
そして、彼女の発想は、私にもありがちな発想だから、よく分かる。
一度悪い方に思い込むと、それが、その通りであるかのようにだんだん思えてきてしまう、という現象だ。

夫はよく、「ニュートラルに物事を見ろ」と言うが、先入観を捨てて相手を見るのは実に難しい。
好きな人が行う行動は、好ましく見えるし、苦手な人が行う行動は、すべて穿って見てしまう。

だが、イエスキリストだけは、昨日も今日もいつまでも同じである。
その神様が、私たちと共にある。
邪念を捨てて、目の前にある事実だけを受け取るのである。

言うは易し、行うは難し。

それでも、創世記4章7節は続きがある。

「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである

いつも治める人間でありたいものである。