ざっくりいうと、私はこの3年余、父との考え方の違いに長く悩んでいた。
パーキンソン病と診断された母の、医療と介護の問題である。
診断当時、私と夫は、母は「レビー小体型認知症ではないか」と疑った。
父に何度もセカンドオピニオンを薦めたが、そうしなかった。
介護サービスも、「様子を見て」と繰り返し、利用せずに生活が続いた。
当時、父は仕事をしていた。
つまり母は日中、ひとりだった。
食欲が減退し、やがて口元に持ってこないと食事も水も取らないようになっていった。
父は母の状態を認めたがらなかった。
「あなたが食べないと、俺が(娘に)責められるんだぞ」と母に大声で言った。
母はいつも、黙っていた。
母には、誰かが口に水を持っていき、食事を温め、話しかける日常が必要だった。
看護婦の友人が、実家を訪問してくれて、「脱水症」と言った。
冬なのに脱水症になる。それを初めて知った。
「こんな生活はおかしい」と父に叫んだ。だが、ことごとく玉砕した。
1年が過ぎ、母は35キロになった。
(亡くなるのが御心なら、早く天に引き上げてください)
何度もそう祈った。同時に母を不憫に思った。
私はどうすればよかったか?ーー毎晩3時に目が覚めて、頭の中でグルグルと改善策を練った。
私の精神状態は危なくなり、夫は実家と距離を置くよう勧めた。
映画「どうすればよかったか?」をご存じだろうか。
統合失調症の姉を持った弟、藤野知明さんが家族の映像を2024年12月に公開した、ドキュメンタリー映画だ。
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「どうしてこうなったのか?」
父には、父の物語がある。彼なりの考えがあったとは思う。
だから、読者の方には、少し差し引いて読んでいただけたら、と思う。
家族の問題は、外から見えるほど単純ではない。
それでも私はずっと苦しかった。
私しか、この惨状を知らない。命を預かっているかのような責任が重くのしかかった。
母の生活が下降線をたどるのは、最初から分かっていた。
事が悪化する中で、数年が経過し、私はようやく気がついた。
私と親には、境界線がある。
これは、父と母の道だ、と。
誰もが好きに生きる権利がある。父が母をどうしようが、父の自由だ。
ひとりひとりが重荷を背負い、生きている。
母でさえ、そういう夫と結婚した責務があった。
その人の重荷は、その人が背負うしかない。
「助けて」と、言ってこない限り、家族と言えども、手出しが出来ない。
「つかず離れずで、遠くから見守る」
この距離を保つことは難しかった。父がどれくらい「助けて」と言わないか、医者が証明してくれた。
↓
私は、あらゆる方法を試みた。
・私たち夫婦が、実家を支援する
・行政やケアマネに関わってもらう
・クリスチャンに関与してもらう
どれもうまくいかなかった。わが家に関わる人はいなかった。
時に私が見かねて、母を渋谷へ引き取ったこともあった。
しかし数か月後、「母を返してほしい」と父が言った。
聖書に基づき、私は母を元に戻した。父が母を愛していることはよく分かった。
しかし戻すと、歩けるようになった甲斐もなく、母は天井を見つめる日々に戻っていった。
2年が過ぎ、初めて父が母を別の病院へ連れて行った。
「パーキンソン病とレビー小体型認知症の合併症」であった。
処方箋が変わると、母は回復した。
だが、やはり生活は緩やかに下降線をたどっていった。
ふと私が気がついた時、母はいつもトレーナーを着ていた。
不思議に思って尋ねると、生活から、パジャマがなくなっていた。
■私のこれまで
▶ 言いたくない、家族のこと。(2)へ続く
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by桜子