話題作の映画「それでもボクはやってない」略して「それボク」。
満員電車で痴漢に間違われた男性(加瀬亮)のえん罪裁判をもとに日本の刑事裁判制度の問題点を描く物語。監督・脚本:周防正行、出演:加瀬 亮/瀬戸朝香/山本耕史/もたいまさこ/役所広司/田中哲司/光石 研/尾美としのり/小日向文世/高橋長英/大森南朋/鈴木蘭々。
東宝試写室(日比谷)で見せて頂いた。旧作「Shall we ダンス?」から推察するに、周防監督のことだから竹中直人さんのような個性派俳優の笑えるシーンがあるに違いない、そう思ったら大間違いだった。初めから終わりまで息つく暇もない緊張感が走り続けたのである。唯一、弁護士さんの事務所がNTTPCのビル隣で、「あ、あれ●●じゃん」と言われて我に返る。橋のシーンは、NTTコミュニケーションズ(NTT東日本も入っている)の近くだ・・・頭が一瞬よそにいったが、すぐに映画に戻される。エンディングでようやく肩をトントン叩けて試写室を出た。そういう社会派ムービーという冠そのものの作品だった。
「それでもボクはやってないんだ!」by被告人 VS 「それでもボクはやってないんだ?」by検事 の話である。
・・・ところで、これを機に「さばき」について、聖書を開いてみた。
聖書というのは、旧約(イエスキリストが生まれる前)聖書と新約(イエスキリストの誕生とその後)聖書から成り立っている。旧約から探すと膨大な量なので、新約聖書だけにする。
そしたら、
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られる(マタイ 7:2)
この一行をみただけで、人を裁くことの重さをずっしりと感じておののく。
すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。(ローマ 2:1)
もし不当に裁かれた場合、天地万物の創造主とイエスキリストを信じる人は次のように捉える。
しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。 私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。(第一コリント 4:3)
御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように。」と言いました。 (ユダ 1:9)
ちなみに上文からは、このさばきに信じている人と信じていない人の区別はないようだ。
このほかに裁判という観点から、聖書の引用をみてみると、、
律法を定め、さばきを行なう方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。 (ヤコブ4:12)
と書いてあった。
というわけで、裁くことは実に責任が重い。当たり前のことを改めて確認する。